昭和54年12月22日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ、おかげが受けられる。
おかげを受ける要諦ですね、秘訣のようなもんです。それならば全身全霊を神様へ持って行っておらないと出ける事ではございません。片一方の手をさい出しておったでは、片一方だけのおかげの。両手を揃えて頂く事になる時に、両手で受け止めれる、言うならばおかげ。いわゆる、全身だけでもいけない。前霊だけでもいけない。いわゆる全身全霊を神様へ向けるという事でございます。あの人にも頼みこの人にも頼みと言うのではなくて、一心をそこに立てるのです。
こういう心持になってと。この辺の表現が素晴らしいですね。子供が言う事を聞かん時に、もうお母さん知らんよと、もうかまわんよと言った様な心の状態。そういう心の状態で縋れと仰っておられる。そのそういう心の状態だけではいけんのです。そういう心の状態になって神に信心してやれと、こうおっしゃっておられる。そこが私は要諦だと思う。秘訣ですおかげの。
ところがなかなかいよいよ本番という事になると、そういう訳にはなりません。結局日頃ね本気で信心しておかなきゃならないし、日頃と言うても今日只今をね、やはり有り難いという信心を体得しよらんと、体得する事に勤めておかんと、なかなかその時だけ出ける事じゃありません。それこそやけのやんぱちじゃいかんのですからね。神様に一心に、言うなら全身全霊を持ってすがるという事です。子供も可愛い側におってやらなきゃならんと思う。
もう自分の全身全霊というものは、子供の方へ行ってしまっておる。それで本分の方を神様へ向けるじゃなくて、それをいわば全部放っておくという心になる。そん時の心持が子供が心証を言うて、言う事を聞かん時にもう知らんぞ、かまわんぞと言う様な心にいなる。そういう心持で信心してやれとこう仰っておられる。理屈では皆分かるんですけれども、その場になるとなかなか出けません。それでそこには神様を信じて疑わない。有り難い勿体無いという心の状態がなからなければ出けんのです。
今日、今日只今があるという事が有り難い。今日ご神前にこうして向かわせて頂いておる。御祈念の座に座らせて頂いて御祈念をしておる。御結界にこうやってつかせて頂いて、今日も何時もの様に皆さんと相対して、お話を聞いて貰っておる。もうその事が不思議で、その事が有難うてというものでなからなければならんと思うですね信心は。言うならば今月今日があると言う事只今があると言う事。あぁ今日も一生懸命こうやってお届け帳に向かってからお届けを、皆さんのお届けを奉仕させて頂いておるが。
そのそれが出けておるという事、もう只今が有り難いという心なんです。一つ狂うたり間違ったりするとそれが出けません。それが出けておるという事が有り難い。昨日朝の御祈念の後に、吉井の波多野さんが毎朝あぁしてお参りになります。しかも一番バスで見えるわけです。で昨日バスを待っておられたら大きなトラックが目の前で止まった。そして中から運転手さんが下りて来られる。何じゃろうかと思うてったら、あのおばあさんあなたどちらへおいでですかとこう言われる。
いや私は毎朝こうして合楽の金光様にお参りさせてもらっております。そうでしょういつも貴方がここにおられる。もう歩きよんなさる時にはそうでもないでしょうけれども、ここでジ―ッと待っておんなさるという事は、まぁいかに寒うあんなさるだろうかと思うて、毎日それを見て通っておる。今日は勇気を出して下りて来ましたち。どうぞ私の車へあそこの前を通るのですから乗って下さいと言われたち。世の中には本当に親切な人があるもんですね。
やっぱ親切もね、やっぱ勇気を出さなきゃならんですね。毎日あそこの婆さんが、こん寒かちゃ待っては何処にか行きよってじゃろうと、いうだけで見過ごしておるだけじゃなくて。乗せて行ってやりたいなあと。それにはやはりその勇気がいるんです。その大きな車を止めて自分が下りて来て。お婆さんどちらへお出でですかと。こうこうです。そんなら私の車に乗って下さいあちらの前を通りますから。
道を歩いとる時には体も温もりますけれども、ジ―ッとあのバスを待っとりなさると寒いでしょうと。どうぞ乗って下さいと言うてご親切に甘えてと言うて、まっここまで乗せて頂いたという事。私は毎日この伊万里から福岡へかけて行く、鳥越製粉の車に乗っております。鳥越製粉ていうのが吉井にある。それが毎日じゃないでしょうけれども、これからは私が当番の時だけはここを通りますから、どうぞ乗って下さいと言うて、まぁ車の中で言われたという話を、昨日しておられました。
昨日はちょうど、あの年寄りを大切にせよという御理解でしたよね。もうまるっきりそれを地で行くような感じですね。信心がなかってもそれが出ける。どんなに素晴らしいお話を、昨日そして一昨日の話なんかはもう、まぁ言うならば、合楽の一番深いと言うたら、深ぁい意味でのお話だったと思うんですよね。簡単なお話でしたけれど。私共の心の底にもう一つ底にある、その心を見つめてのお話でしたよね。とにかく私は、昨日体験した事でしたけれども。
まだ朝のあのひと通りのお届け終わってから、いつもここで立つような事はありませんけれども、ちょっとお手洗いへ行きたいと思って立たせてもらった。まだ廊下は暗いです。用を済ませて洗面所で。とにかく教えの鏡を立ててとこう言われるけれどもね。教えを聞くと言うてもね、自分の心が有り難い心の明かりというものがない限り、どんなに鏡を立てても自分の姿は映らないという事です。
私は昨日、それを発見したような気が致しました。暗い中に鏡を向かっても映らんです。皆さんが教えが身にに着かない、血に肉にならないというのは、皆さんの心が光を持たないから教えの鏡に向かっても自分の姿さえ、ただ姿が映るだけでどこが汚れておるやら、曲がっておるやら分からんのです。自分の心がやはり神様へ向かっておかなければいけんのです。自分の心が有り難いなぁと。それこそ今申します、今月今日只今が今こうやってお話が出けておるという事が私にとっては。
皆さんは今日只今、こうやってお話を頂いておれるという事が、おかげを頂かなければ出ける事ではないなぁという、その有り難い心で私の話は聞いて下さる。そこにはそのお話が一部始終がよくわかるだろう。又ははぁ今日は有り難いどこが有り難かった、ここが今日の御理解の、まっ頂きどころであったという事がハッキリ分かるんです。ただ自分の悩みとか苦しめられた、心の中がいっぱいと言った様な時には、なかなか話が耳に入りません。心がやはり明るい光を持つ。
今日只今があるという事が有り難いという、その有り難いという心で、鏡に向かわなければ映らないという事です。お互いの心の中にはやはりその、波多野さんに言われたという運転手さんのような心がないじゃない、あるんです人間の心の中には。けれどもそれが時折自分の心の中にも、自分ながら愛想がつけるような心が起きたり。心行どころかそれとは反対の心すら、自分の心に動いたりする事を気付くのです。私共がいつも絶えず自分の心の中に信心の喜びを持っておる。
そういう信心が積み重ねた上にも積み重ねて行かれないと。言うならばここは神様にお縋りして、もうこの事は神様言うならばお任せして、お縋りをすると言った様な心も出て来るのじゃないかと思う。これは不思議です。自分の心が神様に向かうて、よくお話をいたしますように、ここへ座らせて頂いておるという事、もうそれこそ神様とこれっきりで、今日も一日御用をさせて頂くぞと。どういう例えば突発的な問題が起こっても、どういうお届けがあっても、ビクともする段じゃありません。
もうそれこそ貧乏揺るぎもせんで済む様な心。そういう心の状態でおれる事を願う。そういうそういう心がしきりに湧いて来る日でした。けたたましゅう表から大人の声、子供の泣き声がします。まだ今若先生がいくつ、11、12の時じゃなかったでしょうか。こう近所の方が抱えて来て下さっておる。目の玉がこうやって外へ出てからひっくり返っとんですよ真っ赤になって。それがその親の篠原さんというお父さんが、あのここに竹が何かこう竹を投げる遊びをしておって、それが目ん玉に刺さったんです。
そしてそれをこう引き抜かれる時に、目ん玉までこう一緒に出て来たわけです。ほりゃぁもうびっくりする様な事でしたけれども。こちらがどっこい今日はそれこそ、貧乏揺るぎだん、でもする段じゃないと言う様に神様と首っ引きの時でしたから、もう本当にビクッともしませんでした。ようし痛くないようにお願いするぞっと言うて、家内が勝彦を抱えてその辺の下に部屋がございませんから、二階の部屋に連れて行って暫くしたら泣き止みましたもん。だいたいお礼出てから眠りましたとこう言う。
ほうらもう近所の方達の、一緒に遊んどった子供のお母さん達が心配して、とにかく早う医者に連れて行って下さいと言うてみえましたけど、いやぁいいですが心配しなさんでんいいですよとと。まぁ心配した頂かんでもいいですよと言うて帰ってもらいましたが、一日でした。もちろん明くる日はそれこそ血を揉みこんだように真っ赤にしておりましたけども、それが中へ治まっておかげで傷もつかずに、もう本当におかげを頂きました。今月今日只今がだから大事だという事が分かりますね。
起こってからさぁとここでもうろたえるなと仰るように。うろたえておったらやっぱり人間心が先行致します。だからどうでも一つおかげを頂きましてね。そん時にうろたえんで済む信心。椛目である月次祭を、もう先生方並んで二階にでしたから、下へ下りて来んならん。もう下に下りるという時に電話がかかってきた。秋永文男先生んとこの隣が火事だとこう言うのです。さぁんならすぐ帰らなきゃと言うて、それこそ慌てておりますから。もう慌てんでもいいってお月次祭が終わってから帰ればいいと。
と言うてまっ本人もそれで腹が決まった。私も今からお祭りを仕えんならんという時ですから腹が出けておる。近所がやっぱ焼けましたけれども、文男さんのところだけは、それこそ荷物も、あれが行って出しておったら、あの呉服類ですからもう濡らかしてしもうとっただろうけれども、おかげで濡らすこともなし焼ける事もなしに、おかげを頂いた事がございます。慌ててはいけんのです。だから慌てちゃならんと言うても、これが慌てずにおられようかという事が起こって来るんです。
だからそういう時に、ままよという心が出る信心を日頃しとかなきゃいけん。ならそういう信心とか度胸とかというものは、もう日々もう今月今日只今が、不思議なおかげを受けておるな。毎日の事ですから何でもないように思いますけれども、今日ここにお参りが出けて、今ここでお話を頂いておれておるという事が有り難い。その心が光になる。その光を持って鏡を見るのですから、ハッキリ自分の姿も言うなら、教えの鏡を立てて分かって来る様なものじゃないでしょうか。
そういう日々が続けられて行くところに、今月今日只今が有り難い。そこへならどういう事が起こってきても、それこそビクともする事はない。まぁそれを表現するとです、子供が言う事を聞かん時に、もうかまわんぞと言った様な心と同じような心という事なんです。そういう心でそれだけではいかん。そういう心で神に向こうてやれ、信心してやれとこう仰るのです。それはもう今月今日、只今を有り難いと思わせて頂くような信心からでなからなければ、生まれて来ないように思いますね。
どうぞ。